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作戦通り!?現代にもつながる「犬伏の別れ」の本当の目的とは?

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作戦通り!?現代にもつながる「犬伏の別れ」の本当の目的とは?

「犬伏の別れ」の真実とは?

 

今回の記事は「犬伏の別れ」について述べていこうと思います。

犬伏の別れ(いぬぶしのわかれ)といえば何が思いつきますか?

真田家の父と息子(弟)VS息子(兄)

に別れたこと。

というイメージがあると思います。

簡単にいえばそういうことです。

しかし犬伏の別れを中心に、その前の背景やその後の背景を見ることで

犬伏の別れというものがどれほど重要で、深いものだったのか
理解することができます。

では、犬伏の別れについて紐解いていきましょう。

よろしくお願いします。

犬伏の別れとは

では犬伏の別れとはどういった内容なのか解説していこうと思います。

この時代の覇者、天下人である豊臣秀吉

しかし62歳でこの世を去ります。

その後は、徳川家康が力を持っていき台頭していきます。

力を持っていった徳川家康。

それを阻止し豊臣家を守ろうとした石田三成

この2人のいざこざから1600年に天下分け目の戦い…

「関ヶ原の戦い」

が勃発します。

それは真田家だけでなく、様々な大名が西軍(豊臣家)か東軍(徳川家)に付くのか決めなければなりませんでした。

自分たちの家を守るための大きな決断でした。

勝った方が次の世の覇者になり、

負けた方は没落していく事は安易に想像がついたのです。

諸将にとって凄く重要な決断になったのです。

真田家も例外ではありません。

西軍・東軍のどちらに付くか会談した場所が「犬伏」だったのです。

薬師堂のお寺で密談したのです。

それも親子3人で話し合ったとされています。

「犬伏の別れ」となった理由は

その話し合いの中で出た結論からであります。

真田家は2つに別れて戦うことを決めたのです。

西軍には真田昌幸と真田幸村

東軍には真田信之

真田家が敵味方に別れることで、どちらが負けても

真田家は存続するという作戦だったのです。

真田家を残すために、真田家が敵味方に別れて戦う作戦を決めた会談。

そのため「犬伏の別れ」という呼び名になったのです。

 

結果は、関ヶ原の戦いでは東軍(徳川家)の圧勝で幕を閉じました。

そして、西軍側についた昌幸・幸村は九度山に追放。

東軍側についた信之は大名となりました。

親子が別れて戦うことになるとは、なんて悲しい現実でしょうか。

しかしこの作戦が功を奏し、真田家の血はその後も残る形になりました。

今現在でも、真田家の血は残っております。

犬伏の別れの作戦通りになっていますね。

これこそが「犬伏の別れ」であります。

 

では、真田家親子3人の関ヶ原の戦い後どうなったのか簡単に説明していこうと思います。

真田昌幸

真田昌幸は信之と幸村の親であります。

知略家・策略家として有名な昌幸。

過去には、天と地ほどの力の差がある徳川家に

2度も戦いで勝利しているほどの実力者です。

相手を翻弄する作戦ぶりで勝利を収めていました。

家康からすると面目丸潰れ。。。

因縁の仲といってもいいでしょう。

関ヶ原の戦いを個人でみると、真田家と徳川家の戦いは勝ちました。

しかし全体でみると徳川家が勝ちました。

個人が勝とうが、西軍が負けてしまっては昌幸も敗者になります。

因縁の相手であった昌幸に家康は死ぬまで戦えぬように

和歌山県の九度山に追放しました。

そしてその後、徳川家康を倒したい想いを残して

65歳でこの世を去りました。

真田幸村

真田幸村という名前で知れ渡っているが、人生の大部分は真田信繁という名で生きていた。

真田家次男であった信繁は、人質などで

様々な大名の元に送られ、たくさん武士の極意を学びました。

そして関ヶ原の戦いでは父と共に西軍につきました。

父と共に関ヶ原の戦いで徳川家を翻弄する戦いぶりを見せつけました。

がしかし関ヶ原の戦いでは西軍は負けてしまいます。

父と同じく九度山に追放される形になりました。

九度山では父と協力し生活の苦しい中で生きていきました。

昌幸の死後、大坂の陣が始まると九度山を脱出。

そして、「日本一の兵」と称される伝説ぶりをみせつける真田幸村であります。

真田信之

犬伏の別れだ信之だけは徳川側につきました。

そして、東軍の勝利により信之は大名となります。

その後も九度山へと追放された真田家を助けようと

家康に嘆願したりとしました。

そして信之は93歳という長寿の果てこの世を去りました。

犬伏の別れで一人、東軍についた信之のおかげで、今日も真田家が続いているのです。

まとめ

どうだったでしょうか?

「犬伏の別れ」を簡単に真田家が西軍・東軍に別れた

とだけで簡単に済ませる内容ではなかったはずです。

真田家親子3人は本当に賢い武将だったのでしょう。

ここで、ある裏話。

犬伏の別れの密談の最中

真田家家臣、河原綱家(かわらつないえ)が覗くと

昌幸が下駄を投げつけ、綱家の前歯が折れた

という伝説も残っています。

それぐらい真剣な会談だったのでしょう。

真田家存続の話ですからね。

私は真田幸村が一番好きな武将なので

また詳しく記事にしたいと思います。

その時はまた読んでください。

御精読ありがとうございました。

 

今回の内容でも少し登場した豊臣秀吉が「京の大仏」を建立していたのは知っていますか?

しかし今は存在しない。不運続きな「京の大仏」。

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